講師プロフィール


佐藤 智香子(さとうちかこ)

武蔵野音楽大学ピアノ科卒業
月・火・金・土曜日のレッスンを担当しています。
鹿児島市出身

●鍵っ子にしない!そんな母は声楽家
鹿児島県で生まれる
武蔵音大出で、声楽家の母の元でピアノを習う
5歳の頃だった
母のレッスンの合間に見てもらう程度だった
母は午前中に鹿児島短期大学へ教えに行き
帰ってからピアノの生徒さん40人を教え
夜は夜で専門を目指す声楽の生徒さんを教えており
忙しくしていたが、子供3人を鍵っ子にしない!
というポリシーで頑張っていた

●川に楽譜を捨てる??
小学2年生の時に母の同僚の怖いピアノの先生に習う
毎回レッスンで泣く有様
ところが、母は一回習い事を始めたらやめさせない!方針で
ひどい練習にも全くかかわらなかった。
いやいや習う中、気持ちの収まりがつかず
甲突川に楽譜を何度も捨てた。
川岸に捨てた楽譜を上からじい〜っと見つめ、やはり叱られるなと
拾いに行く始末。
とくに叱られまくったバッハの楽譜はボロボロだった
先生の指導がしっかりされていたおかげで
小学生でツェルニーの40番まで進む
6年生の時に先生が変わる

●東郷音楽学院・・・コンプレックスが生まれる
前任の先生の転勤により、母の同僚で武蔵野音大の先輩の東郷和子先生にならう。
東郷音楽学院を作ってしまうような県内では有名な先生である。
門下生は超優秀。小学生でショパンのエチュード。コンクールで入賞する子もたくさん
そんな教室に入れられて、でもやめるという選択肢がなかったので
コンプレックスを感じながら必死で習う
コンクールに出ても、自分だけ予選落ち
母はそのことは責めなかったが、自分はどんどん自信をなくして行った

●私立の中学校でいじめ
父が教頭を務める中学へ
少人数制の中学で1学年60人程度
父の顔に泥を濡れないと
ひたむきに勉強を頑張り、成績は常に一桁。
ところがこのことがあだになり、上級生から
あらぬいじめを受ける
『ひいきされている』
『特別扱い』
仲間はずれから始まり
無視などが起こり
精神的に追い詰められていった。

●夜中に奇声
そんな状態が1年半続いた
最後の方は、夜中に奇声をあげるほどに。
親が心配して、転校さえ促された。
その頃、幸いなことに親友ができた。
私の辛い気持ちを聞いてくれたり、
上級生が睨むと睨み返してくれたりと
本当に救われた。
今でも付き合いがあるほど大事な友人となっている

●書道か、ピアノか?
ピアノは相変わらず低迷状態
小学校1年から習っていた書道
中学の頃には楷書6段まで取った。
高校に入り勉強も忙しくなり、書道は続けて、ピアノは辞めようかと考えていたが、母に強く言うことが出来ずに流れはピアノ継続の方向へ。

●片道4時間のレッスン、劣等生が音大へ!?
自分には記憶がないのだが、中学3年の頃に音大に行きたいと言ったらしい
それを真に受けた母が、東郷先生と相談して音大受験コースへの道を準備。
東郷先生とは別に月1回福岡まで片道4時間かけてレッスンに通う羽目になった。
その当時、鹿児島で音大を目指すとなったら飛行機で東京まで行くというスタイルだった
それに比べれば、福岡にレッスンに通うというのはまだマシというような感じだった

●追われる毎日
今思えば、なんで自分は音大に行くのだろう?と考えても良さそうだが、当時の自分は本当に生活に追われており、時間があればピアノ。
楽典の問題集をやりつつ、高校の勉強もいい加減にはできない。
あっという間に1日が終わっていった。

ピアノにも常に4時間はかけないと追いつけなかった
唯一親友の存在がありがたく、ちょっとしたおしゃべりが癒される時間だった

●憧れの学習院
自分は本当は学習院大学で美学を学びたかった。
でも、誰にも言えずにささやかな抵抗で
模試の志望校の欄に学習院と書いていたが、
ついに誰にも引き上げてもらえなかった

●本当の気持ちを言えずに
ここまで散々親に音楽の勉強でお金をかけてもらった
福岡までの旅費代、武蔵音大での夏期講習、冬期講習などの旅費、宿泊費、講習代。
今さら一般大学に行きたいと言ったらそれまでのことが無駄になってしまう。
とうとう最後まで言えなかった

●落ちたら先生の顔に泥を塗ってしまう
聴音が苦手だった。
高3の1月にこれではまずいと東郷先生の個別特訓が始まった。
「私の生徒でソルフェで落ちた人はいないのよ!」と言われ、「ヤバイ、歴史をつくっちゃうな・・・」というのが実感だった。
父は母とは対称的で鹿児島の大学に行って欲しかった。
なので、東京の大学は1校のみと条件をつけられた。
自分は東京に行きたい!
ならば武蔵野音大頑張るしかない!と腹を決めた

●失意の帰郷
周りの受験生はレベルが高かった。
東郷先生のところで耳は肥えていたがさすがにびびった。
聴音もできた気がせずに
東京から帰って母に
『ごめん、多分落ちたと思うわ。』
と言った。
『大丈夫、大丈夫。』
と母だけ妙に浮かれていた。
私は父に頭を下げて
浪人してもう一回東京の大学を受けさせて欲しいと
どうやって言おうかを考えていた
合格発表までの1週間は魂が抜けたように寝て過ごした

●まさかの・・・
当時発表は掲示板のみ
さすがに行くことはできずに先輩に代わりに発表を見てもらうことに
頼まれた先輩もきっと嫌だったと思う
当日電話の前に座る母。
相変わらず寝ている自分。
『りーん。』
運命の電話が鳴った。
母の弾んだ声で私の運命が動いた。
(心の声)『嘘?まさか?』
まさかの合格だった。
声楽家の母の
『受かったって!!』
という言葉が家中に響き渡った
嬉しかった反面、これから起こる人生が少し怖くなった。
あの優秀な人たちの中で勉強するんだ・・・

●ホトケの先生出現
音大に入学後の先生は、深川庸子先生。
150cmあるかないかという小柄な方なのにすごいパワーがある。
初のレッスンに何を弾いたか記憶にない。
先生は目をつぶってしばらく沈黙していらした。
そして「指一本から直しましょう。私を信じてついていらっしゃい」
の一言。
万にひとつの奇跡の合格だったから、ここは先生におまかせしよう!と楽譜なしのレッスン開始。
周りがバリバリと弾く中で、本当に指1本のレッスン。
厳しいけれどおおらかな優しさを持つ先生のレッスン。
人生、また生徒指導の上で、大事なお手本となった。

●初めてほめられる
在学中は徹底的にバッハ。
卒業演奏の曲はベートーヴェンのソナタ第31番。
これは本当に仕上がるのか、という1年だったことを記憶している。
鹿児島県の新人演奏会で演奏、講評をくださった先生に、
「あなた音がきれいだったわ〜〜」と褒められる。
父も弟からも「お姉ちゃんスゴイ」と褒められた。
劣等生もココまで成長できたが、自分的にはピアノライフはお腹いっぱい。
悩んだ末、一般企業へ就職することにした。

●有名アーティストとの出会い
レコード会社のBMGビクター㈱クラシック部へ就職。
10年ぶりの新人と可愛がられて夜な夜な飲み会。
当時、クラシック部も「紀子さまご出産記念CD」とか
モーツアルト没後200年企画CDと盛り上がっていた。
新人ながら企画を任されて、終電の毎日。
ピアノは大きなインテリアとなっていた。
キーシン、デ・ラローチャ、ドミンゴ等有名アーティストに会い、
時にはリハーサルも聴けたことが大きな収穫だった。
食事をしたりパーティで気さくにお話している時は普通の人なのだが、
ひとたびリハ&本番となるとコワイくらい別人で。
ここの切り替えが普通の人のレベルではないと感じた。
この体験が、のちの生徒指導、生徒たちをいかに集中させるか?に役立った。

●人生の分岐点は双子の出産
この激務生活の中、結婚。
プロポーズは記憶に無いのか、されなかったのかわからない。
やりがいあるも多忙な中、お腹の激痛で緊急手術・入院したことも。
卵管を痛め、子どもはできにくいと言われた翌年に、双子を妊娠。
8ヶ月で入院するまで、羽田健太郎氏、大竹しのぶさんのレコーディングに没頭。
退職するつもりはなかったが、当時保育園は数えるほど。
順番待ちは約500番目。
ベビーシッターを雇うのも稼ぎ以上のコストがかかり、泣く泣く退社。

●産後うつでイライラ
ひとの手は2本だけ、を痛感する双子の育児。
実家の母、義母の助けを借りながらなんとか育てる。
仕事を失った喪失感と慣れない主婦生活にイライラが募った。
夫とも喧嘩が増えた。
とにかく頑張るしかない。
泣いていても仕方ない!
歯を食いしばって、足を踏ん張ってやった!
救いは屈託のない悪ガキの双子が毎日いろいろやらかしてくれることと、
松本隆さんが日本語訳したシューベルトの「冬の旅」よく聴いた。
一大プロジェクトで、勤め続けていたらご一緒しただろうお仕事だった。

●思いがけずピアノの先生に
いつかどこかのタイミングで社会復帰しようと思い続けていた矢先。
双子の娘達が幼稚園でピアノを弾いたらしい。
ママ友に「みきちゃんゆきちゃんが上手にピアノを弾いていたらしいけれど、どこで習っているの?」
と聞かれ、私が教えていることを伝えた事がきっかけとなり、数名が自宅にレッスンにくることになった。
この頃には、子育ての合間にピアノを弾くように。
ベートーヴェンのソナタ第17番、
大好きなリヒテルの演奏で鳥肌がたった思い出の曲だった。

●またまた子育て・・・でも満足感も。
双子が1年生になった時に、息子を出産。
早産で救急搬送され、息子は1ヶ月入院。
その後も呼吸器が弱く、夜間診療所に駆け込む日々。
仕事したい!一心で知り合いに頼んで手作り感満載のホームページを作った。
Webのチカラはすごくて、ホームページを見て生徒さんが一気に15名程になる。
ピアノ講師という仕事で、私は救われた。
仕事できている満足感で、産後うつも解消されていった。

●気がついたら40歳
息子は相変わらず発作の日々。
優れた吸入器と出会い、夜間診療所に駆け込むことはなくなった。
気がついたら40歳。
ピアノレッスンの探求をしながらも、自分の可能性を模索。
42歳で医療事務の資格を取得、横浜のクリニックで勤務を始める。
午前中は病院、午後はピアノレッスンを4年続ける。

●先生みたいになりたい!
私はどうしたいのか?どうするのがいいのか?
自問自答する毎日。
音楽を聴くのは好きだし、ピアノを弾くのも好き。
でも、このままピアノ講師をやってていいのか?
そんな時、生徒が手紙をくれた。
「先生みたいになりたい!がんばります」
私みたいに?こんなに頼りないのに・・・。
はっとした
目が覚めた思いでだった。
たくさんのピアノ教室の中から私を選んでくれた生徒さん達に。
先生、ありがとう!って言ってくれる生徒さんの為に。
もっとできることがあるじゃないの?と気付くことができた。

●生徒一人一人を輝かせる!
天才でなくったって
有名でなくったって
人は皆、素晴らしい可能性を秘めています。
生徒さんたちも、
私がかつてプロデュースした人たちも、
プロデュースする人がいなかったら、せっかくの才能も泡となって消えてしまいます。

私と保護者の方が力を合わせて、その子その子にきらきらひかるスポットライトを浴びせることができたら!
その子が自分という人生の中でちゃんと主役になれること
どんなアイドルにも負けないスポットライトを!
そんなお手伝いをさせていただければと思っています。


宮永 霞(みやながかすみ)

尚美学園大学ピアノコースに給費特待生として入学後、3年時より渡仏。
パリ地方国立音楽院スペシャリゼ課程ピアノ科修了。
平成29年よりフェリーチェピアノ教室講師として勤務。
水曜日・木曜日の教室レッスンを担当しています。
沖縄県出身


公開日:
最終更新日:2018/02/26

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